2019年12月14日土曜日
2018年9月17日月曜日
2017年5月28日日曜日
2017年3月18日土曜日
2016年10月23日日曜日
日吉
30年前の日吉時代、スクウェアがソフトハウスになる前の貸コンピュータ屋だった頃のメンバースカードが発掘されました。 pic.twitter.com/w5ASQtuHzw
— 田中弘道 (@tanakahiromichi) 2013年8月8日
24年前の今日3/23、南岸低気圧の襲来で神奈川は大雪。県央の送電鉄塔が倒れて停電&断水。蝋燭の灯りで夕飯を食べ、運よく水をはってあったお風呂の熱く沸かして(ガス)雪で水増しして入浴しました。なぜこんなに鮮明に覚えているかと言うと、スクウェア(日吉)への初出勤前日だったのです・・
— kazuko shibuya (@Skazuko) 2010年3月23日
あけて24日は眩しい晴天でしたが、道は雪で最悪のコンディション。社会人として初出勤に長靴は嫌だったので駅で履き替えて電車に乗ったのでした。大雪、停電、断水という衝撃の出来事のおかげで今でも昨日の事のように思い出せます。
— kazuko shibuya (@Skazuko) 2010年3月23日
2016年9月29日木曜日
2000年12月15日金曜日
ゲーム・マエストロ VOL.1 プロデューサー/ディレクター編(1)>坂口博信
p159〜186
坂口博信
・大学3年になった春休み、田中と2人でバイトしようと読んだ就職情報誌にスクウェアが載っていた。春休みだけのつもりで応募。
・横浜日吉の2DKのマンション。入ってすぐ1作目が途中で潰れる。
・デストラップ。プログラム半分、シナリオ、絵1/4、効果音も担当。
・キングスナイト。個人的には不本意作。
・最後に何か一本作って大学に戻ろうと思っていたら、DQが発売。RPGが作れるなと、最後のゲームのつもりで、FFを作り始める。
・FF3からキャラの動きを制御するエンジンを用意してもらった。FFはその演技プログラムの発展の歴史。今、社内では「エーテル」と呼ばれている。
・植松伸夫。最初ボツと突き返したが、曲順を替えただけで良くなったと言ってしまった話。
・ナーシャ。バグが出た時に国際電話で連絡すると、口頭で直し方を言われた話。
・FFの開発、最初は4人
坂口博信
・大学3年になった春休み、田中と2人でバイトしようと読んだ就職情報誌にスクウェアが載っていた。春休みだけのつもりで応募。
・横浜日吉の2DKのマンション。入ってすぐ1作目が途中で潰れる。
・デストラップ。プログラム半分、シナリオ、絵1/4、効果音も担当。
・キングスナイト。個人的には不本意作。
・最後に何か一本作って大学に戻ろうと思っていたら、DQが発売。RPGが作れるなと、最後のゲームのつもりで、FFを作り始める。
・FF3からキャラの動きを制御するエンジンを用意してもらった。FFはその演技プログラムの発展の歴史。今、社内では「エーテル」と呼ばれている。
・植松伸夫。最初ボツと突き返したが、曲順を替えただけで良くなったと言ってしまった話。
・ナーシャ。バグが出た時に国際電話で連絡すると、口頭で直し方を言われた話。
・FFの開発、最初は4人
2000年7月10日月曜日
ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち
p203〜216
第14章 "最後の夢(ファイナルファンタジー)"に託された社運と人生
・鈴木尚の光栄時代のエピソード
・スクウェア創業直後からFF1発売までのエピソード
p217〜230
第14章 "最後の夢(ファイナルファンタジー)"に託された社運と人生
・鈴木尚の光栄時代のエピソード
・スクウェア創業直後からFF1発売までのエピソード
p217〜230
第15章 任天堂に乗るか、プレステか?運命を分ける陣営
・スクウェアのPS参入の開発面・経営面のエピソード
1993年4月9日金曜日
電撃スーパーファミコン 1993年 6号付録『スクウェア パワーブック』
p42-45
スクウェアの歴史
坂口博信プロフィール
『ファイナルファンタジー』シリーズ全作のプロデュースを担当する、スクウェアの顔ともいうべき人物だ。現在の肩書きは副社長。制作の最高責任者という立場だが、いまも現場の第一線で活躍する。10年のあいだに急成長をとげたスクウェアの歴史の、すべてを知る、設立当初からのメンバーの1人。、1962年11月25日生まれの30歳。
・最初は2DKのマンションの1室で、パソコンゲームをつくっていた。
・当時の社長が「ファミコンでゲームを出そう」と言ったからファミコン参入
・最初のころのファミコン作品はちょっと気負いがあった。DOG時代も含めて試行錯誤のときだった。
・ナーシャは社長が海外のパーティ会場で知り合って誘った。
・FF1はDQのような楽しさプラス、見て聴いてビックリするような大作にしたかった。
・FF1のマスターアップは銀座のオフィスがあった末期のころ。急速に膨らんでいったスタッフ体制を見直した社内的にも転換期だった。
・映画なんかに比べると、ゲームの演出はまだまだのレベル。ポリゴン処理などにも興味がある。
スクウェアの歴史
坂口博信プロフィール
『ファイナルファンタジー』シリーズ全作のプロデュースを担当する、スクウェアの顔ともいうべき人物だ。現在の肩書きは副社長。制作の最高責任者という立場だが、いまも現場の第一線で活躍する。10年のあいだに急成長をとげたスクウェアの歴史の、すべてを知る、設立当初からのメンバーの1人。、1962年11月25日生まれの30歳。
・最初は2DKのマンションの1室で、パソコンゲームをつくっていた。
・当時の社長が「ファミコンでゲームを出そう」と言ったからファミコン参入
・最初のころのファミコン作品はちょっと気負いがあった。DOG時代も含めて試行錯誤のときだった。
・ナーシャは社長が海外のパーティ会場で知り合って誘った。
・FF1はDQのような楽しさプラス、見て聴いてビックリするような大作にしたかった。
・FF1のマスターアップは銀座のオフィスがあった末期のころ。急速に膨らんでいったスタッフ体制を見直した社内的にも転換期だった。
・映画なんかに比べると、ゲームの演出はまだまだのレベル。ポリゴン処理などにも興味がある。
1991年8月9日金曜日
Theスーパーファミコン 1991年10月4日号
p81〜84
すぎやまこういちのゲーム漂流記 第13回
ゲスト 坂口博信、植松伸夫
・坂口博信
1962年、茨城県生まれ。横浜国立大学中退。(株)スクウェアに入社後、1987年にファミコンソフト「ファイナルファンタジー 」を発表。以外、同シリーズのII・III ・IVのディレクターを務める。現在はスクウェアの副社長。
・植松伸夫
1959年、高知県生まれ。神奈川県大学卒業。ファイナルファンタジーシリーズをはじめとするスクウェアのゲーム音楽を担当。楽器収集、オカルト全般、プロレス、キャンプ、ベスパ、オルゴール、文通、旅行とゲーム以外にも趣味は多い。「ファイナルファンタジーIV」のアレンジバージョンはアイルランドにて録音。
・植松坂口の入社経緯。坂口は『From A』の女子事務員の募集を見て、スクウェアにアルバイトで応募。スクウェアが出来て1か月くらいのころ。
・すぎやまの半熟英雄の感想
・(すぎやまから半熟英雄の続編を作ってほしいと言われて)
>坂口 音楽はすぎやま先生がやるというのはどうですか。
>すぎやま やろうか。あのゲームだったら僕のるよ。
・すぎやまのFF4の感想
・(強制的なイベントの進み方について)
>坂口 作ってるときもこれはけっこう賛否両論あるかなと思ったんですが、今回は開き直って徹底的にやったんですよね。
すぎやまこういちのゲーム漂流記 第13回
ゲスト 坂口博信、植松伸夫
・坂口博信
1962年、茨城県生まれ。横浜国立大学中退。(株)スクウェアに入社後、1987年にファミコンソフト「ファイナルファンタジー 」を発表。以外、同シリーズのII・III ・IVのディレクターを務める。現在はスクウェアの副社長。
・植松伸夫
1959年、高知県生まれ。神奈川県大学卒業。ファイナルファンタジーシリーズをはじめとするスクウェアのゲーム音楽を担当。楽器収集、オカルト全般、プロレス、キャンプ、ベスパ、オルゴール、文通、旅行とゲーム以外にも趣味は多い。「ファイナルファンタジーIV」のアレンジバージョンはアイルランドにて録音。
・植松坂口の入社経緯。坂口は『From A』の女子事務員の募集を見て、スクウェアにアルバイトで応募。スクウェアが出来て1か月くらいのころ。
・すぎやまの半熟英雄の感想
・(すぎやまから半熟英雄の続編を作ってほしいと言われて)
>坂口 音楽はすぎやま先生がやるというのはどうですか。
>すぎやま やろうか。あのゲームだったら僕のるよ。
・すぎやまのFF4の感想
・(強制的なイベントの進み方について)
>坂口 作ってるときもこれはけっこう賛否両論あるかなと思ったんですが、今回は開き直って徹底的にやったんですよね。
1986年3月1日土曜日
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